久能山東照宮と徳川家康




11月1日と2日弊社アドマック出版では、黒装束隊3名で「季刊すんぷ創刊号」をPR配布ということで、参拝客の皆さんに直接手渡しして差し上げました。

1日は雨でしたが2日はお天気恵まれ2日間で2000部すべてお配りすることができました。

この雑誌には凄い事実!が書かれています。

静岡市で生まれ育った私も恥ずかしながら知らなかったのですが、実は徳川家康公のご遺骸は今も静岡「駿府」の久能山東照宮に眠っているということ。

おそらく日光東照宮に遺体は移された、とか分骨されたと理解している方も多いと思います。

でも久能山東照宮の落合偉洲(おちあいひでくに)宮司から徳川家康公の墓は久能山であることが断定できる証拠が語られた時には本当に驚きました(゚д゚)!

1.徳川家康公による最後のご遺命(元和二年四月駿府城にて)
久能山・・躰(御遺骸)を久能山に埋葬せよ
日光・・一周忌の後、小さき堂を建て勧請(分霊)せよ

2,上記遺命を無効にするための議論が歴史上存在しない。

3,正式名称・意味
*東照宮「墓所」の正式名称は「神廟」
久能山・・神廟→神の墓
日光・・奥宮→墓ではない

4,例祭
久能山・・4月17日 家康公のご命日 ご宗家が参拝する
日光・・5月17日 月遅れの命日 ご宗家は参拝せず

と大きく上記に書いた4つの証拠から断定できますが、1の「一周忌の後、小さき堂を建て勧請せよ」ということが「ご遺体を移した」というように受け取られてしまっているようです。
日光東照宮は世界遺産にもなっている立派な東照宮ですが、なぜ日光に遺体を移したように思われているかというと実はトリックがあるんですね。
詳しくは駿府ネットをご覧ください。

でも家康公が「神」になったことには変わりありません。
織田信長や豊臣秀吉と同じく戦国武将として名高いのですが、家康公はそれまでの戦国時代を終わらせて天下を統一し、 265 年間もの長きに渡った徳川幕府を創設、「江戸時代」を築いた戦国大名ということはどなたもまっさきに思い浮かぶと思います。

でも織田信長や豊臣秀吉と比べると地味なイメージです((^_^;)
織田信長や豊臣秀吉のように生死を決する戦いで敵方を壊滅させた例は見当たらないし、決戦に至る前に相手方が自滅するケースが少なくなかったそうなんです。

自分から派手に(?)仕掛けていかない・・というかいわゆる「防備」を徹底していたようです。

六甲占星術でいう「西」のタイプになりますが、西は末運(物事を終わらせる)です。
つまりスタート(攻め)に弱く、終わり(守り)に強いということです。
そして何よりもリスクを嫌うため、防備はこれでもかっ!というくらい徹底するんです。
まさに自分の持ち物を生かした戦い方をしていたんですね〜。

それと何より凄いのは、家臣との結束。
ある時自慢の茶道具を見せられた豊臣秀吉に「お前の宝はなんだ?」と聞かれた時「自分のために命を惜しまず戦ってくれる家臣です」と答えたそうです。

戦いのためにそつなく味方を取り込んでいくことで「たぬき親父」などといわれることもありますが、人の優れたところとそうでないところを見抜く目は素晴らしく、適材適所に人材を配置することで知られていました。

そしてふだん余分なことを言わない(口数が少ないのも「西」の特徴)家康公ですが、何くれとなく家臣を気にかけ、顔色が優れない家臣には「大丈夫か?薬を飲むか?」などと声をかけていたそうです(面倒見がよく管理能力に長けてる)

そういえば薬にも詳しく病気をした時も決して医者任せにせず、逐一処方を確かめるのも「西」タイプの特徴といえます。
色々な知識を幅広く知っておきたい、自分で納得しないと人から勧められても取り入れません(^_^;)



そしてマスカケ線の手相といわれる家康公ですが、天下を取るまでには大変な忍耐を強いられました。
生まれてすぐ生母と引き離されたり、人質生活を余儀なくされたり。
絶望感のあまり、投げやりになったり精神的にどうにかなってしまってもおかしくないところですが、「なぜ自分ばかりがこんな目にあうのか?」ということよりも「今自分にできること」に集中することができたのではないかと思います。

そしてまわりにいる人を大事にしていった。
けっして派手ではなく「偉大なる平凡人」などと表現されることもありますが、家康公の考え方は私たちにも真似できるところがたくさんありそうです。

そんな権現様を信心してぜひご利益にあやかりたいものです(^^ゞ